14歳で内燃機関に興味を持ち、ガラクタばらしを手始めに、バイクの魅力に取り憑かれたのは私だけでしょうか、多くの先輩諸氏もそうであった様に思います。バイクに係わり走るのもバラスのも楽しくて堪りませんでした。

 ちょうどその頃。MXと言う競技の練習を目の当たりにし、ダートを見たことのないスピードで走り抜け、ジャンプし、目も止まらぬ早さでコーナーを回って行く、ダートなのに何故こんなに早く走れるのと目から鱗で、その感情が何れ憧れとなって行きましたね。

 程なくポンコツのトレール車を手に入れ、タイヤ交換程度ながら改造してMXコース(只の空き地ですが)へ、楽しみのアイテム…もう道路で走るバイクとは別物と感じ、道路でのバイクは只の移動手段と割り切りポンコツカブに乗り換えました。それまでのバイクを売却したバイク代でヘルメットとグローブを手に入れMX(真似事程度ですよ)三昧の毎日、コースまで押して行く姿を見た諸氏から「やる気有るなら積んでってやるぞ」と声を掛けられたのが切っ掛けで、チームにも入れて貰えました。それが今現在まで続くバイクライフになった様に思います。

 この頃、母ちゃんに「MXブーツ」を買って貰った時のことです。受け取ったオイラは当然ですが、母親が機会がある毎に、その時の事を言いますので、送った側も喜ぶ姿を見て大変嬉しかったのでしょうね。

 ところで、皆さんご存じですかモトクロスやロードの国内レースを主管する国の機関が「文部省」だってこと!!

 1972.3全日本MX選手権セニヤ級(当時の呼名現国際A級)兄秀明を追い上げる鈴木都良夫選手
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 そうこうしてMXレースにも出ましたが、素質の問題でしょうがとても勝てませんでした。その後、就職などから、親元を離れ社会人の世界へ嫁ぎ、環境的な問題からレースは2年程しかできずに終わってしましました。
 まがりなりにも燃えている時だったのに完璧に不完全燃焼って感じです。仕事と遊び…仕事を取ってしまった訳なのです。しかし、この不完全燃焼が有ったからこそ、今があるのかも知れません!


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 機会あって、'73に世界選手権MX125CCクラスで日本人渡辺明がチャンピオンに輝き、そのお出迎えに同行しました。成田空港が開港しばかりのころで、出迎えで行った空港に入る際、見たことのない服装の人たちが沢山居て、出迎えそのものがが大変だった思い出があります。





 その後、結婚し子供も出来、子育てと金欠病の中でのバイクライフとなりました。後に子供やお母ちゃんを巻き込んでのMXやEDエンデューロも思った様にお金はかけられずじり貧でしたね。
 勿論、当時ツーに行きたくてもツー用のバイクも持てず、借り物のバイクなどでホント時々しか行けなかったものです。

 大分経って、エンデーロマシン兼時々ツー用にと250のオフ車を手に入れ、色々と連れてって貰ったり、子供達との楽しいどろんこ遊びの相棒としてずいぶんと活躍してくれましたね。
 その後も、しばらくエンデューロで遊び、子供達のMXのメカクニックにとその主たる活躍の場を変えていったオイラでしたが、いつでも側にバイクがある暮らしぶり変わりませんでした。

 最近では、倅達のレースは、オイラが連れて行くのではなく、オイラが連れてって貰う様な立場に変わって来ちゃいました。(ちょっと寂しかったりして…)
 草レースへの参戦もなくなったオイラ、オフサーキットからオンサーキットへ遊びの場を変えて行く倅達には必要な時だけ連れ出されるだけで、その殆どは邪魔者扱いの如く見捨てられて行きました。

 そして、次第に旧車いじりやツーリングを主に遊ぶ様なバイクライフとなってゆくのです。

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 この様にオイラのバイクライフはスタートし今に至る訳ですが、この間、世間の目は「少年がバイク乗る=不良」と言うイメージが強かった様でずいぶんと非難されたり「あんたは暴走族だ」的な言い方をされたのはオイラだけではないと思います…
 この様な厳しい世間の目を気にしながらも長らえてきたバイクライフ「オイラは正当派」なんて決して言えませんが、それでもバイクが好きです、これからもね!だから
   楽しく走って、たまには温泉にでも行こうか
ってな軽いノリとフットワークで、これからも遊んで行きたいと思ってますので皆さん宜しくね~

ーーーー皆さんの楽しいコメント楽しみにしてま~すーーーーー